秋田県八郎潟における漁業と水産加工業の存続形態

岩村美也子

4 おわりに

本研究では、八郎潟における漁業・水産加工業が八郎潟の干拓という経過を経ながら、現在に至るまでどのような変化を遂げ、いかにして存続しているのかについて考察してきた。その結果、以下のことが明らかとなった。
干拓後の八郎潟の漁業は、「とる漁業から育てる漁業」へと転換した。八郎湖増殖漁業協同組合や秋田県農政部によって増・養殖業が主導され、さらに漁業調整規則や漁業許可方針によって、乱獲が防止されている。また、佃煮組合との話し合いにより、漁獲量(操業時間)が制限され、漁業者が自主規制を行うなどしている。以上のようにして、八郎潟における漁業は以前よりかなり小規模ながら存続している。
一方、八郎潟周辺地域における佃煮加工業は、海産物や乾燥原料、輸入原料を加工することで、年間の生産量の偏りを防いでいる。また、出張工場を設けたり、現地の加工業者と提携するなどして、八郎潟産の原料魚の全体的・季節的な不足に対処している。多くの佃煮加工業者が兼業している煮干加工は好採算で、加工業者の経営の安定につながっていると思われる。以上のように、八郎潟周辺地域における水産加工業は、八郎潟干拓による漁獲量の減少に対処し、伝統的製法を維持しながら存続している。今後は県外に出荷されている受託の製品を、八郎潟産のものとして生産地を記することになれば、八郎潟周辺地域における生炊き法による佃煮の評価はますます高まり、発展していくことであろう。

本稿は1999年度秋田大学教育学部卒業論文の一部を加除修筆したものである。本稿の作成では、秋田大学教育学部の篠原秀一先生をはじめ、肥田 登先生、松村公明先生には終始貴重なご助言、ご指導を頂いた。現地調査では、佃煮加工業者・漁業者の方々をはじめ、八郎潟増殖漁業協同組合・小川原湖漁業協同組合・秋田県農政部水産漁港課・秋田県水産振興センター・昭和町商工会・昭和町教育委員会の方々から温かいご協力を得た。
末筆ながら、以上の方々に深く感謝致します。

1) 八郎潟周辺地域における佃煮加工業の起源については諸説があり定かではないが、明治中・後期にはすでに行われていたようである。


2) 1987(昭和62)年8・9月に、防潮水門が一時的に開放されたことにより海水が流入し、シジミの生息数が急増した。


3) 地元では「ゴリ」と呼称する。標準和名は「ヨシノボリ」である。


4) 谷川英一・田村 正・金森政治・新川伝助(1982)によれば、漁業権漁業とは特定の水面で一定の水産動植物の採捕または養殖を行う絶対権で、その利益について他の一般の権利の存在を許さない排他性を持っている。


5) 谷川英一・田村 正・金森政治・新川伝助(1982)によれば許可漁業とは一定の漁業について農林水産大臣または都道府県知事の許可を得た者だけが営める漁業で、許可を得た漁業者以外は、原則としてすべて操業が禁止されている。


6) ただし、オイルショックによる餌代の高騰やコイの需要の低下により経営体が減少し、現在ではわずかに2経営体が養殖するのみである。


7) 出張工場とは、本工場と同じ経営者のもとで運営される工場のことであり、秋田から男性労働者(職人)が数名派遣され、女性労働者は現地で確保されている。


8) 灯油を使用し、蒸気によって釜を熱する方法であり、同時に複数の釜を熱することができる。

文献

高橋栄 (1957):八郎潟の水産地理的研究−漁業の地域構造と流通機構について−
茨城大学研究紀要、第5号、25−55。


谷川英一・田村 正・金森政治・新川伝助(1982):『新編 水産学通論』
恒星社厚生閣、352p。 


三浦鉄郎(1983):八郎潟の漁業と佃煮加工業、聖霊女子短期大学紀要、
第11号、37−43。


早稲田大学教育学部地理学研究会編(1965):干拓進行に伴う八郎潟周辺地域の変貌、
自然と人間,第12号、4−49

 

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