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八郎湖と佃煮

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秋田県八郎潟における漁業と水産加工業の存続形態

佃煮の歴史

佃煮の名称と由来

 1583年(天正10年6月2日)明智光秀が本能寺に織田信長を襲った時、盟友家康の一行はわずかな手勢で堺にいた。

 光秀がほうっておくわけがないと察知した家康は急ぎ三河への脱出行動を開始し、三河とは逆の方向、大阪、兵庫の海辺へと急いだ。

 神岬川にさしかかった時、船がなく困っていた一行に素早く手持ち舟や、漁船を集めてきたのが、摂津国佃村(現、大阪市西淀川区佃町)の漁民であった。

 慶長8年(1603年)家康が江戸幕府を開いた時、佃村の漁民33名を江戸に呼び、石川島に近い島を居住地として与えた。

 漁民は、故郷の佃村に因み「佃島」と名付けた。彼らは白魚などの漁をしながら江戸城内の台所を賄う漁業権を与えられた。

 離れ小島であるため時化どきにはお菜に事欠き、又、漁期には腐らない副食物が必要なところから小魚を塩辛く煮込んで保存食とし、千葉より醤油が渡り塩煮と共に醤油煮を造り、余ったものを佃島にちなんで「佃煮」と命名し江戸市中に売り出したのが始まりとされているのが一般的のようである。

八郎湖名産佃煮の生い立ち

我が町の佃煮産業の起こり

 我が町の佃煮造りは明治の20年代よりと言われており、琵琶湖に次いで面積22,024haの我国第2位の広さを持つ八郎潟を背景に発展して来たようである。

 明治10年西南の役に陸軍省からの注文が、当時東京市中で人気のあった佃煮が保存もきくということで大量発注のあったことがきっかけとなり、更に明治27〜28年の日清戦争には缶詰めと共に大量に戦地に送られた様である。

 又、副食品として、一般家庭へも急速に広まり、明治末期には、我町の佃煮業者は10軒程になった様である。

我が町の佃煮産業の変遷

 明治末期の10業者程度より大正、昭和にかけて、広大な八郎湖をバックに業者も次第に増え、20数工場を数えるまでになった。

 又、単に八郎潟の小魚のみならず、小女子や昆布、スルメ、削り節等の乾物を原料とした佃煮も製造され、昭和22年に公布された食品衛生法により工場施設も改善拡大され、販路も交通手段の発達により、全国へ送られて行ったのであるが、昭和41年に完成した八郎潟の干拓により、湖面の面積が5分の1以下の4,064haとなった。

 これを契機に業者の多くは転業、あるいは廃業を余儀なくされ、現在、我町で営業している業者は7社のみである。

我が町の佃煮産業の現状と今後

 八郎潟の干拓以後、大巾に漁が減少し、八郎潟の魚だけでは経営がむずかしくなった為、資源を求めて青森県の小川原湖や北海道の各湖沼へ直接に工場を設け、あるいは現地の業者と提携してどうにか製品を確保している現状である。

 最近は冷凍冷蔵等の施設の整備、流通及び保存等の技術の向上で外国からのより安い原料が、全国の各業者が容易に手にすることが出来る様になったことにより、高値の国内原料を主として使用する我が町の業者には非常に厳しい現状である。

  又、食生活の洋風化、あるいは食物の多種豊富な現在、我々も従来の味だけではなく、現代風にあっさりした炊き方や、あるいはより高級な原材料や調味料を使用し、付加価値を高めた商品造りを行なっている訳である。

 又、今後は我々も積極的に外国の資源の活用を計るとともに、幸いに全国にその名を知られる「八郎潟」を最大限に利用し、八郎潟の佃煮、昭和の佃煮とそのブランド化を進めて行くことも、これからにつながる一つの方法でもあると考えている次第である。